2016年12月29日木曜日

間違いではないが、正しくもない

整体によくあるロジックとして「肩こりや腰痛は、普段の身体の使い方が悪いから起こる」というのがある。しかし、本当にそうなのだろうか?という疑問が私にはある。

「ならば、正しい身体の使い方をしていれば、肩こりにも腰痛にもならないのか?」と突っ込みたくなるのだ。

普段から正しい身体の使い方を意識して、見た目にも姿勢よく運動も欠かさないような人でも、肩こりや腰痛に悩まされている。そんなことが多々あるのが現実だからだ。

食べ物に関しても同様に、「正しい食事をしていれば、病気にならないのか?」という疑問がある。

そうなると、さらに突っ込みが必要だ。「そもそも『正しい』って何やねん?」である。

バナナが身体に良いと言われたからバナナを食べる。これは間違いではないが、正しくもない。大切なのは、自分にとってどうなのかという検証だ。

ある事柄について、「正しい」と最初に言ったのは誰なのか。なぜ、自分もそれを信じているのか。先入観なくゼロから見直したとき、自分にとっての真実が見えてくるのではないか。それには机上の知識ではなく、自らの身体を通した体験が必要だ。


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<お知らせ>

1月27日(金)午前10時~12時、予防医学情報研究所の朝川兼行先生の講演会「脳と意識からみた栄養学」を行います。私自身も朝川先生の講演を聞いてファンになり何度も通っているのですが、今回直接オファーさせて頂き、文京区に来ていただくことが実現しました。

分子栄養学・物理学・心理学などを織り交ぜた深いお話でありながら、客席はいつも爆笑の渦。大笑いしながら思考のスイッチが切り替わる、ユニークでエネルギッシュな講演会です。文京シビックセンター5Fの会議室にて、60名限定です。詳細はこちら
(Facebookのイベントページが開きます。Facebookアカウントがない方は、info@yamakita-seitai.comまでメールでお申込み下さい)

2016年12月25日日曜日

自分の言葉で話す

クリスマス・イブの昨日は、妻の所属する教会へ行った。去年は参加する気にもならなかったので、この一年で自分も変わったなと思う。

こうしてブログを書いているのは、自分の言葉を発する練習のためでもある。借りてきた言葉ではなく、感じたこと、考えたことをそのまま言葉にする。今、私に一番必要なのが、そういう力なのだと感じている。

きっかけは、3月に参加した日野晃先生の合宿(武禅)だった。そこで自分の発している言葉は、すべて「借りてきた言葉」であることに気付かされた。

子供は親の言葉をコピーしながら育つ。親から借りてきた言葉を繰り返し使ううち、やがてそれが自分の言葉になっていくが、そのプロセスには必ず「体験」がなければならない。とりわけ、「人間関係の中で言葉を練る」という体験が必要だ。

体験を伴わない言葉は、単なる知識だ。もちろん人間には知識も必要だが、生身の人間が言葉を発する以上、体験と結びつかなければ響かない。

知識だけなら、紙やインターネットで伝えるだけで十分だ。私は「知識を増やす」ということを長年行ってきた結果、頭の中に「体験を伴わない言葉」をたくさん蓄えてしまった。それらは借りてきた言葉であり、自分の人生において本当に必要なものなのか?というと甚だ疑問だ。

体験を伴わない言葉は、「比較」「評価」「判断」といった、客観的な作業を脳に要求する。いわゆる前頭葉の世界だ。ここに縛られると、動きが遅れる。次の瞬間にはもう、相手には響かない。

それだけではない。相手の話を聞く場面においても、自分が余計な言葉を蓄えていると、相手の言葉の「比較」「評価」「判断」が始まってしまう。結果として、相手の話を自分の枠にあてはめて理解しようとしてしまう。当然、相手が伝えたいことは分かるわけがない。

分からないなら、分からないと認めることが必要だ。「分からない」を認めなければ、スタート地点にも立てないからだ。自分の言葉が及ばないことは、今は分からない。だから、聴く。

昨日の教会では去年と比べて、牧師さんの言葉が少しは耳に入ってきた。教会は変わらずにあるのだから、聞く側の自分が変わったのだろう。

2016年12月23日金曜日

歪みから学ぶ

クラニオセイクラルの施術を続けているうち、ほとんどの人の身体に共通の歪みがあることに気が付いた。一つ目は後頭部の右側、後頭骨と側頭骨の境目付近。もう一つは後頭部~首の後ろの正中よりやや左の奥、頸椎に沿った線。


右利き・左利きに関わらず、この2か所がほぼ必ず緊張している。 緊張が発生する順番としては、首の後ろの左奥が先で、次に後頭部右側と進むようだ。施術をすると後頭部右側の緊張が先に取れ、首の後ろの左奥が緩むのは最後になる。

足首に関しては、右の外くるぶしの下が緊張している人が多い。股関節は右が内旋している人が多く、そのぶん右足首が外を向いて辻褄を合わせている場合が多い。肩は、左肩甲骨の内側が緊張している人が多い。

・・・などと分析したところで、「それがどうした?」と自分で突っ込んだ。

歪みがあっても、生活に支障がなく、やりたいことが出来ていれば良い。歪みも含めて自分の身体だ。

歪みを敵視するのではなく、歪みと付き合うという姿勢が大切なのではないか。そもそも、「歪んではいけない」という発想自体が息苦しい。歪みは悪で、真っ直ぐは善という捉え方自体がおかしい。

歪みは誰の為に発生するのか?それはもちろん、歪みを持つその人自身のために、である。身体の歪みを持つ人は、そこから学べることがたくさんあるのだ。

たとえば私の場合は側弯だ。それは身体の動きを何らかの形で制限しているはずだが、制限の中でも自分の身体を丁寧に感じ、可能性を探るプロセスが大切なのだ。施術やレッスンは、そのプロセスを助けるためにある。

2016年12月22日木曜日

考え方が身体を変える

何をやるにしても基本は「身体」だ。ドラムレッスンも、身体を整えてからのほうが間違いなく捗る。実際に施術を受けに来てくださる受講生も多数おられ、皆さん効果を実感されている。

身体には、本人も気付かない力が眠っている。私も含めて、身体の機能を100%発揮できている人はそうそういない。まだまだ開発できる。

身体は、頭で考えた通りに動く。その身体は自分が食べたものでできており、人は頭で考えた通りのものを選んで食べる。だから身体を変えるには、「考え方」を変える必要がある。

私のレッスンはただドラムを教えるだけのレッスンではない。身体の状態や動きの土台となる「考え方」にまで踏み込む。上達するもしないも、考え方一つなのだ。そこが変われば演奏も変わる。

来年はドラムと整体が一つになり、今までにないドラム教室になっていく予感がする。今年一年はそのための準備だったと感じる。

私の整体と妻のメディカルアロマも統合されていきそうだ。おそらく来年は、妻と共同で企画を立ち上げることが増えるだろう。

その第一弾として、来年1月27日(金)文京区にて栄養学のセミナーを開催します。予防医学情報研究所の朝川兼行先生を講師にお招きし、脳・意識・思考といった切り口から栄養学を学ぶセミナーです。私達夫婦が朝川先生に感銘を受け、多くの人に聴いて欲しいとの思いから企画しました。詳しい案内は追って。

2016年12月20日火曜日

妻がクリスチャンになった

私的なことだが、私の妻は数年前にクリスチャンになった。そしてそれ以来、キリスト教が家庭内に入ってくることになった。

私自身は無宗教で、当時は随分反発した。しかし今となっては、視野を広げるきっかけをくれた妻に感謝している。

昔の私は、人生は自分の努力で切り開くものだと思っていた。努力は必ず報われると思っていたし、必要なものは何でも努力して獲得するべきで、たとえ才能がなくても努力で補えば良いのだと思っていた。「自分には才能がない」などというのは努力が足りない人間の発言だと思っていたし、努力すれば目標は必ず達成できると思っていた。

こうした考え方は、私が受験という文化の中で育ってきたことと関係しているのかもしれない。

クリスチャンの考え方は違う。

才能は、神様がくれたギフト(賜物)。
全ての人には、神様から与えられた使命がある。
人生は、神様が導いてくださる。

それまでの私の考え方と真逆である。「そんな無責任なことでどうすんねん、自分で頑張れよ」と妻に喰ってかかったこともある。

しかし時が経つにつれ、私のほうが少しずつ変わってきた。

ちょうどその頃はドラムのDVDを出版して自分の知識を出し切った時期で、身体の動きを分析したり、それを言葉で説明したりすることに息切れし、疲れ果てていた。自分なりに言葉を駆使して理論を積み上げてはいたが、その延長線上に開けた世界が見えてこなかったのだ。

「人智を超えたものを認めなければ、先に進めないのではないか?」

そんなことを考えている私の横で、妻が聖書を読んでいる。これも何かの巡り合わせだったのだろう。

また、ちょうど同じ頃に日野晃先生とお会いする機会を得たことは本当に大きかった。先生が私と正面から向き合い「とにかく考えていることを全部出し切ったら良い。そうすれば次が見えてくる」と言葉をかけてくださったことで、私は本当に勇気を頂いた。先生からは、現在も多くのことを学ばせて頂いている。

目に見える現象を追いかけているだけでは、私が知りたいことは見えてこない。人と人が出会う不思議、出来事が起こる偶然(必然)の不思議。論理的に説明できないものはいくらでもある。意識や思考によって身体が変化することも、論理を超えている。

そういう領域のことを自分の血肉にしようと思ったら、論理に縛られていてはダメだ。だから私は、人智を超えたものを完全に認めることにした。そして今は「神様」というのも悪くないと思っている。

とはいえ、私にとっての神様は「宇宙の法則」というのに近く、聖書に書いてある神様とは違う。そのあたりは妻とはまだ相容れないが、私にとってはどちらでも良い。

2016年12月19日月曜日

手応えがないほど良い

実はドラムという楽器は、上手に演奏すれば全く手は痛くならない。知らない人にとっては意外かもしれないが、楽器が大きな音で鳴っている時ほど、手に返ってくる衝撃は小さい。

この感覚がわからないうちは、手に衝撃があるほど大きな音、力強い音が出ていると勘違いしてしまいがちだ。そこで衝撃に対抗するために握力トレーニングをしたりする人もいるが、間違っている。

手に衝撃が返ってくるのは、楽器に十分なエネルギーが伝わっていないからだ。持てるエネルギーを余すことなく楽器に伝えることができていれば、手に衝撃は返ってこない。それを可能にするのが技術だ。

私も昔は手にマメができるほど練習したが、行き詰まりを感じてゼロから奏法を変えた。発想を180度転換する必要があったので、一応の形になるまで2年程かかった。時間はかかったが、ドラムを通して得た発想の転換は、施術はもちろん、その後の人生全てにおいて計り知れないプラスになっている。

自分ひとりが一生懸命でも、「相手にどう作用しているのか」という視点が抜け落ちていたら何にもならない。まさに昨日書いた「相手がいてこそ」だ。

そういえば、最近は「頑張って仕事をしている」という手応えがない。レッスンも施術も、2時間なり1時間なりがあっという間に過ぎる。相手も同じように感じてくれていれば良いのだが。

2016年12月17日土曜日

相手がいてこそ

ドラムにせよ施術にせよ、一人で勉強する時間は楽しい。

それはまた、楽しいと同時に「楽」でもある。自分が間違いなく前進しているような気になって、安心だからだ。しかしその安心感は、実は見せかけだ。

一人で何をどんなに勉強したところで、相手がいなければ、それが価値を発揮する時は永久にやってこない。重要なのは、いま目の前にいる人に自分が何をしてあげられるかだ。私が何に興味を持ち、何を勉強してきたかなんて、相手には関係がない。「こだわり」なんていうのも、邪魔になるだけだ。

そんなことに気付いてから、私は本やDVDだけでなく、できるだけ先生について直接学ぶようになった。優れた先生は、生徒との関係の中で大切なことを伝えてくれる。それは文字や映像にできないものであり、人と人との関係の中でしか学ぶことはできない。関係の中で、技術や知識がどのように活かされているのか。反対に、知識や技術に頼ってはいけないのはどんな時か。そうしたことを実地に学ぶには、先生に直接習うしかない。

と、そんなことを言いながらも、まだまだ本やDVDを買い込んでしまう。これは私の性分だから仕方がないと思っているが、少なくともそれらを見るときは、その先生に習いたいという直感が働くかどうかを確認するようにしている。そして直感が働いたら、実際に習いにいく。習えなくても、その先生にお会いできる方法を考える。

ここでもやはり、直感だ。「こうあるべき」という固定観念を外し、過去の成功体験と比較したり、世間体を気にしたりといった、直感を妨げる要素をなくす。そうやって日々を過ごしていれば、ピンとくる出会いや縁は、必ず絶妙なタイミングで起こるべくして起こるはずだ。

眼は脳のスイッチ

どうやら、眼は脳のスイッチらしい。

眼で見るのではなく、眼で音を感じて演奏する。施術なら、眼で相手を感じる。

これは仮説だが、眼球の全体をセンサーとして働かせることによって、脳の中枢部の松果体、脳幹、後頭葉、小脳など後頭部のはたらきを優位にできるのではないか。

逆に普通の眼の使い方、すなわち文字を読む、形や色を認識する時のモードでは、言語や論理を担当する前頭葉が優位になる。このモードでは思考が優位になって、重要な感覚が働きにくくなるように感じる。

実際にドラムレッスンや施術で試しているが、眼の使い方を変えることで演奏も、施術効果も変わるように感じている。

とはいえ、あくまでも私がそう感じるだけなので、客観的な指標があるわけではない・・・。学問的な見地でこういった研究をしている人がいたらご指導願いたいところだ。

いずれにせよ、私達は多くのことを見たり感じたりしているが、どこまでいっても、自分が処理できるものしか認識することができない。それは主に「見る」ことによって判断・選別され、本来感じているはずの物事の多くをシャットアウトしてしまっているのだ。

目の前の出来事を、どれだけありのままに感じることができるか。

2016年12月15日木曜日

依存させない

今日いらした整体のクライアントはMRI診断で腰椎の2か所ヘルニアがあり、坐骨神経痛。5月からほぼ月1回のペースで施術させていただき、今日が7回目の施術だった。

半年経ってヘルニア自体がどうなっているかは病院で検査を受けないとわからないが、日常レベルでは痛みは出なくなった。6月まではコルセットが必要だったがそれも必要なくなり、趣味の自転車もゴルフも再開されている。

そこで、これまで毎月来てもらっていたのを、今日は初めて「次回は2か月後にしましょう」と提案させていただいた。整体院の経営を考えると、毎月通ってくれる固定客を増やし、安定収入につなげるというのが定石だ。しかし、ウチはそこに疑問をもっている。

2か月期間を空ける代わりに、足首を丁寧に回すエクササイズを行ってもらうこととし、その動かし方の感覚をお伝えするのに相当の時間を割いた。ただ動かすのではなく、つま先とかかとを丁寧に意識し、全身に連動が伝わることを感じながら行う。


痛くなったらまた来ればいいと思っているお客さんは、こういうのは面倒がってなかなか受け入れてくれない。しかし今日の方ならできる気がしたので、トライしてみた。2か月後が楽しみだ。

自分で自分の身体をきちんと感じることができていれば、そうそう身体はおかしくはならないはずなのだ。しかし私も含めた多くの人が、クセや欲求の積み重ねで身体に負担をかけ、徐々に崩れていく。それを元に戻すには、感覚を正常化するのが最も理にかなっているというのが私の考え方だ。

もちろん生まれつきの骨の歪みなど器質的に無理な場合もあり、その場合は手術など病院のお世話にならなければならないこともあるかもしれない。しかし大抵の不調は、クセと欲求が身体の感覚を無視して暴走してしまうことによって生じるのだと考えている。

感覚を正常化するには、丁寧に触れることが一番だ。その触れ方を深めるのが私の課題だ。

メディカルアロマ

私の妻はメディカルアロマ・アドバイザーなので、私もアロマオイルをよく利用している。施術室で焚いたり、体調維持の為に飲用、直接塗布したりと、アロマオイルの用途はとても広い。例えばラベンダーは火傷の治りを早めたり、レモンは石油系の化学物質を溶かしてデトックスの作用があったりと、知れば知るほど可能性が広がる。

(もちろん飲用・塗布はそこらへんで売っているオイルではダメで、メディカルグレードの精油に限る。また日本の薬事法では認められていない使用法も多くあり、それらは全て自己責任となる)

私が精油を使い始めるまでは、ちょっとした対立があった。私のクラニオセイクラル・セラピーは単にコリをほぐすだけの整体ではなく、頭痛、腹痛、気分の落ち込みなど広範囲の症状に対処するものなのだが、メディカルアロマでも同様のことができる。そこで、私と妻の「手柄の取り合い」のような状態が生まれてしまったのだ。

これはエゴのぶつかり合い以外の何物でもない。本当に相手のことを考えるなら、良いと思われることはすべて伝え、試してもらうのでなければおかしい。

今年の後半に入って、ようやく協力体制が生まれてきた。

クラニオセイクラル・セラピーは後頭部から全身を調整する。内臓と物理的につながっている筋・筋膜系を刺激することで慢性の下痢が改善したり、内臓由来と思われる腰痛が改善する人もいる。もちろん頭、首まわりの詰まりを解消することで、頭痛や肩こりの改善例も多数ある。

アロマオイルも、香りの刺激が大脳の辺縁系に直接届くため、クラニオに近い効果が期待できる。私自身の体感としては、塗布・飲用による効果はさらに大きい。(繰り返すが、メディカルグレードのものに限る)

これから精油のことも学んで、施術と統合していきたいと思っている。

年末年始、月例セミナーお休みします

12月の東京、1月の大阪のドラムセミナーはお休みします。少し構想の時間を頂き、来年1月の東京から再開します。参加を検討してくださっていた方々、すみません。内容を一新したいので、少し時間をください。

東京・大阪で一年と少し、月例セミナーを続けてきた。毎回テーマを決めたり、あるいは決めなかったりと試行錯誤しながらやってきている。

ここ最近のセミナーでは「意識の置き方」「グルーヴや音色の作り方」といった根本的なこと、演奏全体に関わる感覚を伝えることをテーマにしてきた。しかし一年間やってみて、課題そのものはもっと具体的でなければいけないと気付いた。

どんな課題であれ丁寧に取り組めば、自ずと根本的なことにも触れることになる。そうして本当の基礎の重要性に気付いてもらえるきっかけになるようなセミナーを続けていきたいと思う。ある程度のカリキュラムが必要になるだろう。

グループの場合は、私が一人一人を見られる時間が少ない。だからこそ一人を全員で聴いて、見て、感じ取れるような場にしていきたい。全員が全員の体験を共有できれば、個人レッスン以上に多くのことを学ぶことも可能なはずだ。

2016年12月13日火曜日

言葉の限界

言葉には限界がある。

感覚の世界を言葉で表現しようとしても、私が感じている世界を100%正確に表現することは絶対にできない。気持ちを言葉に表すということも、私には本当に難しい。

だからこそ、言葉を丁寧に選ぶことが大切だと感じる。

私がドラム講師として技術を伝える時ももちろん言葉を使うが、その言葉を相手がどのように受け取るかは相手次第。言葉の解釈の仕方には、その人の人生がすべて反映される。違う人生を生きている者どうし、一つの言葉を100%同じように解釈できることはまずないと感じる。

考えてみれば、恐ろしいことだ。伝わった「つもり」なだけで、伝わっていない。そんなことが、実はしょっちゅう起きているのだ。

だから、私は言葉に頼らない伝え方を模索している。

一つは、体感してもらうというやり方。身体で覚えてもらう。そのほうが良く伝わる。

それでも多くの人は、体感したことをまた言葉に置き換えようとしてしまう。それはもはや「クセ」である。そういう私も、そのクセを強く持っている。

感覚を感覚のままで置いておいて、熟成させるというのは難しい。

技術を身につけるためには、その土台になっている感覚を味わい、それを言葉で汚さず、純粋なものとして、手つかずの状態で置いておくこと。そしてそれを見守り、熟成させること。

それを実現するためには、余計な思考を排除することが不可欠だ。

言葉にならないもの、言葉にできないものを他人と共有するのは本当に難しい。だからこそ、言葉を丁寧に使いたいと思う。

2016年12月12日月曜日

直感に従うと上手くいく

これまでの人生で、直感に従って行動したことは100%上手く進んできた。

逆に、「こうすべき、こうあるべき。だからやる」というように考えて行動したことは、たいてい長続きしない。

私は論理的な思考は比較的得意で、youtubeに上げているドラムのレクチャー動画を見て習いに来てくれる人の多くが「いろんな動画の中で一番説明がわかりやすいので選びました」と言ってくれたりする。灘高校卒という学歴からも、いわゆる勉強が出来る人と見られることが多い。

しかし、実は直感タイプだ。

たとえば、「これは知っておくべき」と思って購入した教則本や教科書に限ってほとんど消化せず本棚の肥やしに・・・という経験は誰にもあるのではないか。私の場合、かつてジャズのブラシやラテンのリズムに苦手意識があったのだが、ブラシのラインがたくさん書いてある教則本や、ラテンのリズムパターン集といった類は買ってはみたものの、全く受けつけなかった。

逆に、直感的に「これは良い、自分にとっての本物だ」と思った教則本は、著者のファンになり、自分の一部にすることができた。エド・シグペンのブラシの本、ピーター・アースキンの本などは内容は地味だが、私にとっては本当に面白く、今の自分の土台になっている。

話はかなり遡るが、思えば私自身が大学に進学したのも「べき」の思考によるものだった。その後中退してしまったのは、直感はNOと言っていたにもかかわらず無理して入ったからだと自己分析している。もちろん親の気持ちを考えると悪いことをしたわけだが、40歳になった今は毎月実家に帰って孝行しているので、辻褄を合わせることはできたと思っている。

ブログ引っ越し

ドラマー、クラニオセイクラル・セラピストの山北弘一と申します。

「呼吸で奏でるドラムレッスン」として、東京・大阪・山口などでドラムを教えたり演奏したりしています。また、東京都文京区でクラニオ・セイクラル・セラピー(頭蓋仙骨療法)と気功整体で心身を癒す「やまきた整体院」を営んでいます。

これまでドラムと整体、別々にブログを書いていたのですが、これからは「私」としてのブログに一本化することにしました。日々の出来事や、そこから感じたことを書いていきたいと思っています。

ドラムや施術の技術的なこと、専門的なこともたまには書くかもしれませんが、日記みたいなものが主になるかもしれません。よろしくどうぞ。