2016年12月25日日曜日

自分の言葉で話す

クリスマス・イブの昨日は、妻の所属する教会へ行った。去年は参加する気にもならなかったので、この一年で自分も変わったなと思う。

こうしてブログを書いているのは、自分の言葉を発する練習のためでもある。借りてきた言葉ではなく、感じたこと、考えたことをそのまま言葉にする。今、私に一番必要なのが、そういう力なのだと感じている。

きっかけは、3月に参加した日野晃先生の合宿(武禅)だった。そこで自分の発している言葉は、すべて「借りてきた言葉」であることに気付かされた。

子供は親の言葉をコピーしながら育つ。親から借りてきた言葉を繰り返し使ううち、やがてそれが自分の言葉になっていくが、そのプロセスには必ず「体験」がなければならない。とりわけ、「人間関係の中で言葉を練る」という体験が必要だ。

体験を伴わない言葉は、単なる知識だ。もちろん人間には知識も必要だが、生身の人間が言葉を発する以上、体験と結びつかなければ響かない。

知識だけなら、紙やインターネットで伝えるだけで十分だ。私は「知識を増やす」ということを長年行ってきた結果、頭の中に「体験を伴わない言葉」をたくさん蓄えてしまった。それらは借りてきた言葉であり、自分の人生において本当に必要なものなのか?というと甚だ疑問だ。

体験を伴わない言葉は、「比較」「評価」「判断」といった、客観的な作業を脳に要求する。いわゆる前頭葉の世界だ。ここに縛られると、動きが遅れる。次の瞬間にはもう、相手には響かない。

それだけではない。相手の話を聞く場面においても、自分が余計な言葉を蓄えていると、相手の言葉の「比較」「評価」「判断」が始まってしまう。結果として、相手の話を自分の枠にあてはめて理解しようとしてしまう。当然、相手が伝えたいことは分かるわけがない。

分からないなら、分からないと認めることが必要だ。「分からない」を認めなければ、スタート地点にも立てないからだ。自分の言葉が及ばないことは、今は分からない。だから、聴く。

昨日の教会では去年と比べて、牧師さんの言葉が少しは耳に入ってきた。教会は変わらずにあるのだから、聞く側の自分が変わったのだろう。

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